私がこれまで学んできたシベリウスについて、年表形式でまとめました。私自身のメモとして、今後も追記・改訂いたしますが、ご参考まで。
尚、文中の[〇歳]の表記は、シベリウスが12/8生まれなので「その年の12/7までの年齢」を記載。また、参考・引用した原典は最後に記載した【参考資料】のとおりです。
【最新改訂:24.2.5】
ジャン・シベリウス(Jean Sibelius) 1865年12月8日 - 1957年9月20日
1865年12月8日 ヘルシンキの北方約100km、ロシア帝国の自治領・フィンランド大公国のハメーンリンナで誕生。出生名はヨハン・ユリウス・クリスチャン ・シベリウス(Johan Julius Christian Sibelius)※
※親しい者からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称したのに倣い、彼も学生時代以降はずっとジャンと名乗った
1868年[2歳] 医師だった父クリスチャン※が他界(その後、その莫大な借金でシベリウス家破産)
※社交的でお人好しな反面、金遣いの荒さやアルコール依存の問題を抱えた人物で、シベリウス自身の借金や浪費癖、アルコール問題はこの父から受け継いだとの説あり。また、2歳半という早期に父性を失ったことが、英雄や神々に眼差しを向け続けたシベリウスの心理的要因となったという説もある
1872年[6歳] 叔母ユリアからピアノの手ほどき※を受ける
※型にはまったレッスンに飽き、自己流の即興演奏を楽しむようになったシベリウスは、その才能を見守っていたアマチュア・ピアニストの叔母エヴェリーナのために「叔母エヴェリーナの音楽人生」という即興演奏を聴かせたらしい
1875年[9歳] 最初の作曲 ヴァイオリンとチェロのための『水滴』※
※後年の研究によれば、1880年初頭の作品との説あり
1881年[15歳] 正式にヴァイオリンのレッスンを受けるようになる※
※後年の本人コメント「私の心は音楽に囚われ、以後10年にわたり、偉大なヴァイオリニストになるのが私の夢だった」
1885年[19歳] ヘルシンキ音楽院※1でヴァイオリン、作曲などを学び始める※2
※1 親族の反対があり、ヘルシンキ大学理学部→法学部との掛け持ちだった
※2 ヴァイオリニストとして致命的な極度のあがり症であることが判明し、作曲のレッスンを本格的に受け始める
1987年[21歳] 後に妻となる16歳のアイノ・ヤルネフェルト※と出会う
※1871年8月10日生まれ、シベリウスが亡くなった12年後の1969年6月8日 97歳没
1988年[22歳] フェルッチョ・ブゾーニ※がヘルシンキ音楽院のピアノ教師として赴任
※1歳年下のブゾーニとは生涯、友情関係で結ばれ、精神的支援を受ける
1889年[23歳]
5月 ヘルシンキ音楽院の卒業作品の弦楽四重奏曲が初演※1
9月 ベルリンに留学※2 更にウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事
※1 これを聴いたフィンランドの9歳年上の作曲家・指揮者のロベルト・カヤヌスは「彼のような天才を前にして、私はもう作曲することはもう二度とないだろう」と語った
※2 留学中にリヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏などに直接触れる
1891年[25歳] フィンランドの民族精神を求めて(~1893年)
6月 フィンランドに帰国、ウィーンで着想した新作交響曲『クレルヴォ』の創作開始
生活の糧として、音楽理論のレッスンやアマチュア・オーケストラを指導
11月 耳の不調を訴え、専門家から心理的ストレスが原因の心気症(ノイローゼ)と診断
1892年[26歳]
4月 実質的なデビュー作『クレルヴォ交響曲』作品7が初演※1
6月 アイノ・ヤルネフェルトと結婚※2
ヘルシンキ音楽院、カヤヌスが設立したオーケストラ学校で音楽理論等を指導
※1 大成功を収め、フィンランドにおける地位を確立したが、数回の上演後、作品を封印。「カレワラ」歌謡の影響が露骨と見做されるのを恐れたから等、諸説あるものの、真相は不明。その作品の中で最も長大な曲だが、注目すべきは、シベリウスが「自らの響き」を見出したこと。シベリウス没後の1958年に蘇演され、重要な管弦楽曲として再認識される
※2 生涯一緒に暮らした2人の間には、6人の女子が誕生。残念ながら、三女は2歳で他界したものの、2015年時点でシベリウスの家系は5代目、約150人。定期的にシベリウス邸に70~80人が集まり、パーティを開催しているとのこと
1893年[27歳]
2月 音詩『エン・サガ(スウェーデン語で「伝説」)』作品9が初演(1902年改訂)
3月 長女エヴァ誕生(叔母エヴェリーナにちなんだ命名)
8月 叔母エヴェリーナ死去
11月『カレリア』全曲版初演(『カレリア』序曲作品10、『カレリア』組曲作品11)
1894年[28歳] 疾風怒濤の時期(~1897年)
6月 『春の歌』作品16が初演(初演時のタイトルは「即興曲」、1895/1903年改訂)
11月 ロシア皇帝にニコライ二世が即位、フィンランドへの厳しい政治的弾圧の時代へ
1年前に着手したワーグナー風のオペラ『船の建造』の作曲が進まず、ストレスを酒で紛らせる悪癖が常態化。スランプに陥る
春には、ヘルシンキ大学男声合唱団が企画した合唱コンクールで、無伴奏合唱曲『ラカスタヴァ(フィンランド語で「恋人」)』が第2位に終わる
7月から「ワーグナーを真剣に研究する目的」でバイロイト~ミュンヘンへ出向き、「パルジファル」を始めとした主要な作品を次々と体験し、スコア等を研究。その結果、表現技法や思想に大きな影響を受けながらも、ワーグナーとの決別を決意
1895年[29歳]
4月 交響詩『森の精』作品15が初演
1896年[30歳]
4月 交響詩『レンミンカイネン組曲』が初演(2曲目の「トゥオネラの白鳥」が有名)
11月 オペラ『塔のなかの乙女』が初演
ヘルシンキ大学のポストをカヤヌスらと争い、選考される見込みとなったが、カヤヌスが大スキャンダル事件を起こし、結果を覆す。その結果、カヤヌスとの関係に大きな溝が生じる。
但し、その後、特例措置として、ヘルシンキ大学教授の年棒の半額が年金として給付されることとなり、図らずしも継続的な生活の糧を得ることが出来たのは、幸いだったとも言える※1,2
※1 しかも、当初10年間の期限付きだったが、後に終身に変更された
※2 但し、これでシベリウスの豪奢な生活全てが賄えた訳ではなく、その後晩年に至るまで壮絶な借金との闘いが続いたことを考えると、「焼け石に水」に過ぎなかったとの見方もある
1898年[32歳] 交響曲への道(~1900年)
2月 劇付随音楽『クリスティアン2世』作品27が初演※
11月 管弦楽組曲の演奏がヘルシンキで成功
※本人コメント「音楽はよく鳴っており、速度は適切なようです。自分が何かを完成させることができたのはこれが初めてではないかと思います。」
1899年[33歳]
4月 交響曲第1番作品39が初演(作曲者自身の指揮ヘルシンキ・フィル)
11月 組曲『歴史的情景』作品25が初演※
※終曲「フィンランドは目覚める」は、後に『フィンランディア』に改訂される原曲
1900年[34歳] 国際的評価を得て(~1904年)
2月 三女キルスティ逝去 シベリウス夫妻は悲しみに沈む
3月 匿名Xからの手紙※が届く
※「貴殿はヘルシンキ・フィルのパリ万博遠征公演を飾る序曲のような作品を作られてはどうでしょう。全てを突き抜けたその曲は『フィンランディア』と名付けられるべきです」
シベリウスはこの提案に従い、「フィンランドは目覚める」を交響詩『フィンランディア』作品26に改訂
7月 カヤヌス指揮ヘルシンキ・フィルのパリ万博遠征公演※に副指揮者として同行
※各国都市で交響曲第1番の改訂版が演奏され、国際的知名度が高まる。また、カヤヌスとの関係修復。遠征終了後、カヤヌスは「シベリウスの存在なくしては絶対に成功しなかった。彼の音楽こそ、私達フィンランド人の大いなる希望なのだから」と語った
帰国後、匿名Xがアクセル・カルベラン男爵だと判明。この後、パトロンとして、約20年にわたり、経済的・精神的に手厚く支援。本人に財産はないが、計画性を持って支援金を募る才覚を持ち、芸術的な観点からもシベリウスの良き理解者であった
10月 半年にわたる海外旅行※1
※1 シベリウス家にとって、最初で最後の長い家族旅行。カルベランがキルスティ逝去の痛みから立ち直れないシベリウスを慮り、支援金を調達。イタリアを目的地として、13の都市※2を巡る
※2 独で指揮者ニキシュ、リヒャルト・シュトラウス、ワインガルトナー、プラハで晩年のドヴォルザークと面会
1901年[35歳]
6月 独・ハイデルブルク音楽祭※に指揮者として自作を指揮し、好評を得る
※この音楽祭の芸術監督でもあったリヒャルト・シュトラウスと親交を深める
1902年[36歳]
3月 交響曲第2番作品43が初演(作曲者自身の指揮ヘルシンキ・フィル)
4月 音詩「火の起源」作品32が初演
1903年[37歳]
12月 劇付随音楽『クオレマ(フィンランド語で「死」)』が初演(1911年改訂)
※1904年にその内の1曲を改訂『悲しきワルツ』作品44と命名、1906年にその内の2曲を『鶴のいる情景』として結合・改訂したが、作品番号はなく、シベリウスの死後16年目の1973年まで再演されなかった(作品番号は『悲しきワルツ』にあやかって作品44-2とされた)
1904年[38歳] 生活環境と作風の変化(~1907年)
2月『ヴァイオリン協奏曲(初版)』作品47が初演
4月 『悲しきワルツ』作品44-1が初演(劇付随音楽『クオレマ』から改訂・独立)
9月 ヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに建てた自邸アイノラに移住
1905年[39歳]
3月 劇付随音楽『ペレアスとメリザンド』作品46が初演
10月『ヴァイオリン協奏曲(改訂稿)』の世界初演(指揮者はリヒャルト・シュトラウス)
この年末、英国を初訪問。以降08,09,12,21年に訪英することになるが、絶大な人気を得ると共に、英国において最も評価された作曲家の一人となる
1906年[40歳]
12月 『鶴のいる情景』作品44-2が初演(劇付随音楽『クオレマ』から改訂・独立)
12月 交響的幻想曲『ポホヨラの娘』作品49がロシア・マリインスキー劇場で初演※
※形式的側面に対する自由な発想と斬新なアプローチ、色彩的なオーケストレーションが高く評価される
1907年[41歳]
9月 交響曲第3番作品52が初演(作曲者自身の指揮ヘルシンキ・フィル)
1908年[42歳] 暗黒期(~1913年)
4月 劇付随音楽『白鳥姫』作品54が初演
前年末から体調不良に悩まされていたが、健康状態は悪化の一方で、5月末、妻アイノと共にベルリンに移動。有名な専門医による喉の腫瘍の除去手術に臨み、無事に成功。しかし、その後、約7年にわたり禁酒禁煙の苦しい禁欲生活※を余儀なくされる
※妻アイノ曰く「この数年間が、シベリウス家にとって何よりも穏やかで幸福な時期だった」
1909年[43歳]
1月 音詩『夜の騎行と日の出』作品55が初演
4月 弦楽四重奏曲ニ短調『内なる声 』作品56が完成※
※完成直後、妻アイノ宛の手紙に「とてもよい気分だ。死の瞬間にさえ、唇に笑みを浮かべてしまうほど、満足している」と記している
1910年[44歳]
10月 音画『樹の精』作品45-1がオスロで初演
1911年[45歳]
4月 交響曲第4番作品63※が初演(作曲者自身の指揮ヘルシンキ・フィル)
※自作品について多くを語らないシベリウスだが、この作品の「意義」と「価値」について、折に触れて言葉を寄せており、「この作品で自らの芸術的真価を問いたい」との意思が感じられる
1913年[47歳]
3月 交響詩『吟遊詩人』作品64が初演(改訂版は1916年初演)
9月 音詩『ルオンノタル』作品70が英国で初演
1914年[48歳] 新たな光明(~1919)
6月 交響詩『オセアニデス』作品73※が作曲者自身の指揮で初演
※日本名:大洋の女神、生涯唯一の訪米、ノーフォーク室内楽音楽祭で初演が大成功
ナイアガラの滝の光景に深い感銘を受けたものの、「全く駄目だ。とても荘厳、広大で、人間の力ではどうしようもない」と語ったという自然への畏敬の念が強いシベリウスらしい逸話あり
1915年12月 50歳記念 交響曲第5番作品82が初演(作曲者自身の指揮ヘルシンキ・フィル)
1918年[52歳] 1月 フィンランド内戦勃発
1919年[53歳] 晩年の創作活動(~1926年)
初頭、シベリウスは薄くなった頭を丸めて印象を変える
3月 カルペラン男爵死去※
※「カルペランがいなくなってしまった。これからいったい誰のために作曲すればよいのだろう」と日記に記述
11月 交響曲第5番の最終稿を作曲者自身の指揮で演奏
1922年[56歳]
初頭、頭痛に苦しみ、眼鏡をかける(写真撮影の際はいつも外していたらしい)
7月に弟のクリスティアンが永眠、悲しみに暮れた
1923年[57歳]
2月 交響曲第6番作品104が初演(作曲者自身の指揮ヘルシンキ・フィル)
1924年[58歳]
3月 交響曲第7番作品105※が初演(作曲者自身の指揮ストックホルム楽友協会コンサート)
※「形式はまったく独創的でテンポの操作は緻密、調性の扱いは独特であり完全に有機的に発展する」との評あり
1926年[60歳]
3月 劇付随音楽『テンペスト』作品109がコペンハーゲンで初上演
12月 交響詩『タピオラ』作品112※がニューヨーク・フィルにより初演
※「シベリウスの最も厳しく、濃縮された音楽表現。たとえシベリウスが他に何も作曲していなかったとしても、この作品ひとつのみで彼は史上最も偉大な巨匠のひとりに位置付けられただろう」との評あり
以後重要な作品は発表されなくなり、残りの30数年間の人生は「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれた
1957年9月20日 ヤルヴェンパーで脳出血により逝去。91歳没
ヘルシンキ大聖堂で国葬が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた
その後、
・肖像がフィンランド100マルッカ紙幣に使用された(ユーロ導入まで)
・誕生日12月8日を「フィンランド音楽の日」という祝日に制定(2011年以降)
更なる詳細は下記をご参考ください。
【参考資料】※本頁だけではなく、当HPの記事全てに共通
Wikipediaのシベリウス関連項目
シベリウス 神部智 著 音楽之友社
シベリウス―写真でたどる生涯 M.フットゥネン、舘野 泉 著 音楽之友社
シベリウス生涯と作品 菅野浩和 著 音楽之友社
ポホヨラの調べ 新田 ユリ 著 五月書房新社
ジャン・シベリウス 交響曲でたどる生涯 松原千振 著 アルテスパブリッシング
「貨物列車」のピアニスト 森と湖の国から 舘野 泉 著 株式会社ハンナ
伝説のクラシック・ライヴ 収録現場からみた20世紀の名演奏家 東条碩夫他著 東京FM出版
レコード芸術 音楽之友社
・1984年3月号「特集 ジャン・シベリウス-神秘に包まれた北欧の巨人」
・1995年3月号「特集 シベリウス円熟期のシンフォニーの魅力」
・2015年3月号「特集 生誕150周年シベリウス、ニールセンとその時代」
音楽の友2015年11月号「特集 生誕150周年ジャン・シベリウスの音楽」
モーストリー・クラシック 2015年11月号「生誕150年シベリウスと20世紀の交響曲」産業経済新聞社
新田ユリ指揮愛知室内管弦楽団2023.12.15演奏会パンフレットの解説(小川至氏)
NHK クラシックミステリー名曲探偵アマデウス:シベリウス 交響詩「フィンランディア」の解説(新田ユリ氏)
シベリウス 交響曲全集の解説
・ハンヌ・リントゥ指揮フィンランド放送交響楽団(DVD、ハンヌ・リントゥ氏他)
(含 フィンランド国営放送の作品「シベリウスという人物」)
・サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BD/CD、トミ・マケラ氏他)
・渡邉暁雄指揮日本フィル・ハーモニー管弦楽団(CD、菅野浩和氏)
・藤岡幸夫指揮関西フィル・ハーモニー管弦楽団(CD、藤岡幸夫氏、山田治生氏)
Youtube
・厳選クラシックちゃんねる 「厳選解説・生涯と名曲 シベリウス」
・ 〃 「徹底解説・マエストロが語るシベリウス 7つの交響曲」
・都響・配信動画「大野和士が語る シベリウス:交響曲第6番」
【私のシベリウス】
①序章:こちら
②ようこそ!ここ~シベリウスの世界~へ
‐ 1.本文:こちら
‐ 2.聴くコツと作品分類:こちら
- 3.おススメの曲:こちら
(a)(大音量で聴く必要のない)親しみやすい魅力持ったシベリウス
(b) 一度ハマったら抜けられないファンタジーの世界へ誘うシベリウス
(c) ハマる人はハマるかも?の尖った魅力のシベリウス
- 4.おススメの曲おかわり+α:こちら
(a)こんな作品もいかが?ハマる人もいるかも?のシベリウス
(b)シベリウスの交響曲、世界共通No.1
(c)聴き比べ:交響詩「タピオラ」
(d)+α:語るシベリウス、作曲家、指揮者
③年表(参考資料一覧も掲載):本頁
④私がシベリウスにハマったキッカケ:こちら
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